熊野筆に関するディープな話し

こんにちはhisaです。

今月は、広島ディープな情報をお届けしようということになり、散々考えたあげく、広島のお土産でも有名になった「熊野筆」を見に行ってきました。

筆の里工房にある日本一の大筆

熊野町は、人口は約25,000人を数え、その内一割程度の町民が筆に関する仕事に携わっているそうです。
なぜこの町に筆づくりが発達したのでしょうか?
筆の原料となる動物の毛は、主に、ヤギ、馬、いたち、鹿、タヌキなどで、ほとんどを中国や北アメリカから輸入しています。また、筆の軸は、岡山県や島根県から仕入れており、台湾、韓国からも輸入しているそうです。
結局、熊野町に筆の原材料となるものはひとつもないのです。

(江戸時代末期)ごろ、平地の少ない熊野村では、農業だけでは生活が苦しいため、農閑期を利用して、奈良地方から筆や墨を仕入れ、それを売りさばいていたことが、きっかけとなり、さらに、広島藩の工芸の推奨により、全国に筆、墨の販売先が広がり、本格的に筆づくりの技術習得を目指すことになりました。その先駆者となったのが、当時筆づくりが進んでいた、奈良や兵庫県:有馬に派遣されたり、地元に招いた筆づくり職人に、技術を習った若い村人達でした。
その後、村民の熱意と努力により筆づくりの技が根づき、明治5年に学校制度ができ、33年には義務教育が4年間になるなど、学校教育の中で筆が使われるようになり、生産量が大きく増加しました。
第2次世界大戦後、習字教育の廃止により毛筆の生産量が落ち込んだ時期もありましたが、昭和30年頃からは画筆や化粧筆の生産も始まり、昭和50年には広島県で始めて通商産業大臣により伝統的工芸品に指定を受けました。現在では、毛筆、画筆、化粧筆のいずれも全国生産の80%以上を占めると言われるまでに発展しています。このように、熊野の筆づくりは、今もなお親から子供へ子供から孫へと引き継がれています。

工芸用の筆で描かれた友禅のきもの。

現在、伝統工芸士が22名おり、その製品はすばらしいものでした。
また、西園寺公望が愛用した筆や俳優の石坂浩二氏の筆なども展示されてました。

※西園寺公望とは
明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

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