来場者1万人を超えた「山下清展」を見に行きました。

こんにちはhisaです。
先日、来場者1万人を超えた「山下清」の作品展を見に行ってきました。
テレビのドラマでお馴染みの「裸の大将」の作品展です。

 山下 清は、1922年(大正11年)3月10日に東京で生まれ、3歳の頃に重い消化不良で命の危険に陥り、一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患いました。
 ちぎり紙細工との出会いは1934年(昭和9年)の5月に千葉県東葛飾郡八幡町の知的障害児施設「八幡学園」へ預けられた際に、この学園での生活で「ちぎり紙細工」に出会いました。
 このころの作品は「蝶々」や「とんぼ」・「ほたる」・「セミ」などの作品に始まり、学園での出来事や生活の風景等が表現されています
 八幡学園での在籍期間は長かったものの、18歳の時に突如学園を後にし、放浪の旅へと出て行きます。(1940年(昭和15年)から1954年(昭和29年)まで)。
しかも、脱走の翌々年、受けることになっていた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けました。21歳の時、食堂で手伝いをしていたところにやって来た八幡学園の職員によって、無理やり徴兵検査を受けさせられましたが、知的障害を理由に兵役免除となっています。
 この記録は『放浪日記』(1956年(昭和31年))にまとめられていました。なお、この時のいでたちとして、テレビドラマなどの影響もあり、リュックサックを背負う姿は有名です。
 昭和24年。27歳のころ本格的に放浪の旅に出ます。清は新潟県・長岡の信濃川を訪れ、その日本一の花火の光景に魅せられ、「長岡の花火」という作品を描いています。その後も「花火」を題材とした作品を数点残しています。
 1953年(昭和28年)31歳の時にアメリカのグラフ誌『ライフ』の記者が、清の少年時代の作品を作品集で見て、その天才ぶりに驚き放浪中の清を捜し始めます。
それを知った朝日新聞が「日本のゴッホ 今いずこ」と題された捜索記事を全国版に掲載し話題となり、清は鹿児島で地元の高校生によって、偶然発見されました。
 家に連れ戻され、その後、全国各地で催された展覧会の来場者は、延べ500万人はくだらないと言われています。
さらに映画「裸の大将」が公開されると、清ブームは過熱を極めました。展覧会ではサインを求める大勢の人々がいたそうです。外で絵を描こうとすると、すぐに発見され黒山の人だかり。有名になってからも何度か旅に出ようとしたそうですが、どこに行っても騒がれてしまい、ついに翌年「放浪を辞める誓い」を八幡学園長に提出し放浪は終わってしまいました。
 その後は、画家として活動をすることを決断し、ヨーロッパへも渡り、数多くの作品を発表しています。1971年(昭和46年)49歳の時、突然脳出血で倒れ、亡くなっています。

作品を見て感じる事は、ちぎり絵で使用されている紙は、水彩画や油絵と違って色を混ぜ合わせる事が出来ないため、限られた色の紙を幾重にも重ねて表現されています。
なかなか広島では鑑賞できない作品ばかりでした。
訪れた日は最終日の1日前で大勢の人で賑わっていました。

 

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