変えてはならないルールと進化する技術。 組版よもやま話(その5)

 「組版よもやま話」と言いながら散々横道に逸れていましたので、そろそろ真面目に書こうと思いますが、そもそも「よもやま話」とは種々雑多な世間話の意味合いだそうですので、あくまでも私の無責任な私見としてお聞きください。

 かれこれ20年近く前の事になるのですが、一時3~4年ほどニシキプリントを離れていた時期がありまして、戻ってきて暫くすると自社の会社案内を新しくするという話があり加わりました。

 その時使われていた会社案内は私が居ないときに作られたもので、キャッチフレーズに「ロゼッタストーンのように云々」の事が書かれていました。ロゼッタストーンの威光になぞらえるつもりだったとは思うのですが、身近な人達に「ロゼッタストーンって何?」と聞いても説明できる者がいませんので、知らずして述べているのでは説得力がありません。
 それではと自らの足元を見直して考えたのが「変えてはならないルール、変わらなくてはいけない技術」という一文です。この当時は我ながらよく考えたなと悦にいっていたのですが、最近辺りを見回すと類似のフレーズをよく見かけますので、各社で考えることは同じようです。

次代に真摯に伝える

 私たちの仕事の柱の一つとして大学・研究所等の「論文作成」があります。私は仕事柄広く浅く知識があると仕事がはかどりますので機会を見つけては博物館・美術館に足しげく通って表面上(上辺だけ)の知識を仕入れてきたりしました。

 ロゼッタストーンをとやかく言いながらも、権威にすがろうとしておっかなびっくりと東京大学や京都大学にも足を踏み込んで、見られる範囲内で広島の地で我々のやっている仕事と比較したりもしました。

 どちらの大学も充実したミュージアムがあって、展示物の中で100年以上前の明治期の英語の論文を見る事ができましたが、レイアウトの骨組みは現在の論文とさほど変わらないんだなあと言うのが第一印象でした。

 地元の広島大学の医学資料館で展示されている「解体新書」の元になった「ターヘル・アナトミア」など、おそらく18世紀の欧文の医学書はより古い印刷物なのですが、克明な挿図とともに現代にでも通じる形式で組まれており、携わった先人の精緻な技術に尊敬の念を抱きました。

東京大学総合研究博物館

京都大学総合博物館

広島大学医学資料館

 この今日にも通じる体裁を保つためには文字の大きさ、字数、行送り、書体、見出しの扱い、行末の処理など禁則事項を定義した「組版ルール」というものが存在します。100年前のルールが今に息づくのなら、これから100年先も生き続けるのではないかと考えました。

 これを「変えてはならないルール」として捉えました。「伝統」と読み替えても良いかと思います。

表現力の開放

 それでは「商業印刷」はどうかといいますと「世相を現す鏡」だと思っています。ポスターでも肩パッドが入ったファッションの写真だったらバブル期を想像しますが、商業印刷のデザイン・レイアウトも時代とともに変化し続けています。
 写真もフィルムからデジタルになってきて久しいのですが、組版技術も「活版」や「タイプライター」など金属の活字を用いていた時代では活字の大きさ以上の文字は物理的に打てませんでした。

 これを今の世代の人に文章で伝えようにもわかり難いと思い、Youtubeさんのお力を借りて映像をお借りしました。

 和文タイプライターは2000文字以上の活字が詰め込まれた盤面から当時は「一寸の巾」といって部首毎の画数順に配列された活字を選んで印字するという職人技でした。そのうえ書体や文字サイズを変えるたびに、よっこらしょと盤面ごと交換して打っていました。

 IBM欧文タイプライターはゴルフボール大のフォントボールをこれまた書体や文字サイズが変わるごとに交換していましたが、ドイツ語やフランス語のウムラウトやアクサンも専用のボールを交換していました。

 IBMタイプライターのボールの動きを今見ても芸術的というか、印字ロボットというか、感動します。

 しかしそれ以降の写真植字から電算写植、そして現在のDTPなど光学的・電子的な技術を用いるようになってからは任意に文字サイズ・書体が選べる「多様な自由」を手に入れることが出来ました。
 イラスト・写真・文体・色彩などの素材を以前は別々に扱っていたのですが、それらを新しい印刷技術により「自由」に融合させるレイアウトや組版で作られた印刷物は、それぞれの時代の証人として積み重ねられています。

 近年は商業印刷に限った事ではありませんが印刷技術の革新でフィルムレス化や複合機の普及でカラー印刷の垣根が下がり、ペーパーレス化でタブレット上では動画でも表現できるようになりビジュアル面での進化が進んできましたので「百聞は一見に如かず」が身近になってきました。

制限があるが故の美しさ

 しかし、手に入れたはずの「自由」が「変えてはならないルール」と思っていた論文の世界で変化を及ぼしていることがあります。

 本文の文字の大きさは各々の投稿規定に定められていますが、図や表は活版タイプオフセットの時代は手書き原稿でしたので、全て組版をしたりトレースして文字を貼り込んでいました。そこでの鉄則は「図表の文字の大きさは、本文の文字の大きさを超えてはいけない」ということで、理想から言うと当時はB5判が主流で9ポイントの論文でしたら図表は8ポイント、A4判が主流の現在でしたら10ポイントの本文でしたら図表は9ポイントというように、本文より一回り小さい文字級数がバランスとして理想でした。

 ところがワード・エクセルが普及し生産性が向上したと言われる現在ですが、紀要・論文集に掲載されている投稿規程にはパソコン上で作成された文章や図表をそのまま貼りこむ旨が書かれている事が多く、いつしか図表の文字の大きさが本文の文字の大きさを超えてしまう事態が散見されるようになってしまいました。それが分かっているのなら私どもで訂正すれば良さそうなものですが、納期面と価格面で折り合いが付かないのが昨今の状況です。

 金属活字の時代には書体や活字サイズに「制限があるゆえ」に簡素な中にも「まとまり」が存在しましたが、現状は手に入れたはずの「多様な表現の自由」が全体のハーモニーを乱す諸刃の剣となっていると私は考えます。

 また、例えば10名の執筆者で書かれた論文集で9人までが文字の大きさの調和を考えて執筆されていても、1本の論文が調和を乱す事がありましたら、その論文集と発行元の学会等の品格・権威を問われる事にもなりかねません。

温故知新

 先ほど100年前の論文の事を述べましたが、長い論文の歴史の中でこのような状況が目立ちだしたのはここ10年ほどの事と思います。「温故知新」と言う言葉がありますが、昔の論文印刷物を見る機会がありましたら私の戯言を思い出して「変わってはいけない何か」を模索しながら眺めていただければと思います。表の中で文字と線の関係が大きく変わった事に気づかれる事でしょう。

 おそらく、この現状を感じておられるのは私と同じ世代の50歳代の先生方、それ以上の名誉教授クラスでは一層の事でしょう。先日見ていた校正紙の中で「禁則処理を為された文章はエレガントだ」とのお言葉を書かれていた著作者のコメントを見て同感ですと頷いてしまいました。この世代では当たり前だった事が、今の世代では禁則事項は重要視されていないようです。

 私たちの世代では表のカラム内の文字の扱いが、文なら均等割り付けか左揃え、数字なら右揃えで1桁目を揃えるのが当たり前でしたが、最近はやたらとセンター揃えが多い表が目につきます。

 嘆かわしいと思っていましたところ、商業印刷の王者たる「自動車のパンフレット」の諸元表を見るとセンター揃えが多い事に気づき、私の方が世相の変化に気づいていなかったのだと感じましたが、まずは印刷物を読む人に正しく内容が伝わる事を第一義に考えていこうと思います。

 論文の世界も最近ではSTAP論文問題やコピペ問題に端を発した改ざん・剽窃(ひょうせつ・他人の成果物を断り無く使うことだそうです)の研究姿勢の問題提起や、投稿規定の中にも本に仕上がった時の文字の大きさを意識する作表を勧めるなど原点に戻ろうとする動きも見えてきています。

 前述のようにカラー印刷や動画が身近になりダイレクトに認識出来るようになった反面、文章での表現や読解が衰えてくる危惧もありますが、私のほうはここ近年で起きた「激変」がこの先10年・20年先にはどのように変化しているのかを老眼をこすって見守りながら、「知識を伝える伝統」と「表現を広げる革新」を自問自答していきます。

 多分ペーパーレス化は進んでいても、「文字が並ぶこと」は不変だと思います。

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