今回は興味をもっている歴史について書かせて頂きます。
1738年、ロシア第二次ベーリング探検隊日本分遣隊が、陸奥・安房に上陸して立ち去るという事件がありました。仙台藩においては出陣するまでの大騒動となり、現在日本において「元文の黒船」と呼ばれています。
江戸時代の日本はいわゆる鎖国状態でしたが、日本近海は多くの外国船が航行していました。長大な沿岸線を持つ日本列島ですので、全域を鎖で閉じれるわけもなく、あちこちで偶発的にも意図的にも外国船との違法な交流が行われていたものと思います。しかし違法行為を公の記録に残すわけもないため、知りたくても日本の文献からはなかなか交流の記録が見つけられません。
そんな中にあって、日本側の史料も見つけやすく、外国船側も国家の任務を帯びて日本に接近しているので、文献や航海日誌などから時期や場所が特定しやすい「元文の黒船」について調べてみました。日本側と外国船側の史料を対比してみるにはとてもいい事例ですので、どのように記述が違うか対比してみたいと思います。
「元文の黒船」事件を、第二次ベーリング探検隊日本分遣隊を派遣したロシア側の概況と、日本における「元文の黒船」騒動の詳細に分けて書きたいと思います。とりあえず、今回はロシアが日本に探検隊を派遣した経緯について書きます。
第一次ベーリング探検隊
モンゴルの支配から独立したロシアは、ヨーロッパとアジアの境であるウラル山脈を越えて東へと進み、17世紀中ごろには極東沿海州に到達していました。
世界中の海が探検され世界地図が作成されつつあった17~18世紀において、唯一未確認の空白地帯であった北太平洋地域まで進出したロシアに、ヨーロッパの学者たちは地図上の空白地域の探検調査を期待しました。
微分積分法で有名な哲学者ライプニッツなどは再三にわたって、ロシア高官へ探検調査の必要性を説いています。その期待に応えるかたちで、ピョートル大帝は「北平洋から中国・インドへいたるルートの発見」を目的とした探検隊組織の勅命を下しました。
探検隊の隊長はベーリング海峡の名にもなったデンマーク人ベーリングでした。ベーリングは目的としていたアジアとアメリカを隔てる海峡(ベーリング海峡)を通過していましたが、それを確認することができる地点まで到達できなかったのでそのことに気付かず、新たな探検計画を提出しました。
第二次ベーリング探検隊
ベーリングの新たな探検計画は、ロシアの国家プロジェクト「大北方探検」の一部に組み込まれました。「学術探検」「第二次カムチャッカ探検」ともいわれる「大北方探検」は、それまでのヨーロッパ諸国が組織したいかなる調査隊と比較しても類のない大規模なもので「白海のアルハンゲリスクからユーラシア大陸北辺沿岸を経て極東地域、日本に到るまでの広範囲な地域を、学際的(博物・天文・地理・動物・歴史など)に研究する」というものでした。この「大北方探検」の海路の探検隊として、第二次ベーリング探検隊は組織されました。
探検隊はアメリカ沿岸調査隊、日本分遣隊、シベリア北岸調査隊に分けられていました。ちなみにアメリカ沿岸調査隊がベーリングの本隊であり、べーリングも含む多くの死亡者を出しながらもアメリカ大陸に到達してアラスカ・アリューシャン列島の探検調査に成功しました。
日本分遣隊
1733年、日本分遣隊隊長にはシパンベルグが就任し、
- 千島列島を南下して日本への航路を発見すること。
- 日本に到達しその政府と港湾施設を研究し、住民と友好親善し交易を試みること。
- カムチャッカにて日本人漂流民がいる場合はこれを日本へ送還し親睦の証とすること。
が、任務とされました。日本分遣隊は1734年にオホーツクへ到着。そこで三年をかけ三隻の船をつくり探検準備を整えました。北方領土付近まで南下する予行演習ともいえる航海を行い、1738年カムチャッカ半島西岸の港へ入港しました。ここで一隻の船を加えて日本分遣隊は四隻からなる探検隊となりました。
1739年5月上旬、カムチャッカ半島西岸を出発した日本分遣隊は、一隻がはぐれてしまいましたが、三隻と一隻で個別に日本を目指し南下しました。6月下旬には、三隻が宮城県沖に、一隻が房総沖、伊豆沖、紀伊半島沖に到達することになります。
ながながと書かせて頂きましたが、ロシアはヨーロッパにおける地理的空白地帯解消の欲求と自国の極東経営のため、大規模な探検調査を計画し実行しました。その調査隊の一部が日本に来た「元文の黒船」になります。ロシア艦隊の担い手は、艦隊長のベーリング(デンマーク人)をはじめほとんどが外国人でした。まだ未成熟であったロシアに独力で大探検をおこなう力がなかったことがわかります。しかしロシアはこの時期を経て大国へと移行していきます。
次回は「元文の黒船」が現れて日本でどのような騒ぎになったのかを、書きたいと思います。
以上で失礼致します。
参考文献
- 木崎良平 1992年 『日露交渉史』 明玄書房
- エリ・エス・ベルグ著 小場有米訳 1942年『カムチャッカ発見とベーリング探検』龍吟社
- ワクセル著 平林広人著 1955年 『ベーリングの大探検』石崎書店
- 船越昭生1976年『北方図の歴史』講談社
- S・ズメナンスキー著 秋月俊幸訳1979年『ロシア人の日本発見』北海道大学図書刊行会
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